コミュニケーションギャップ
ここ数週間、いじけ続けている。
もう少し、丁寧に仕事がしたい。
もう少し、褒められる仕事がしたい。
自分だけ業務がパンパンだと思っている。
なぜ上は気づいてくれないのか、横暴だけどそう思ってしまう。
仕事がこわいと思う。
簡単なことを間違えることがこわい。
結果、みんなが面倒を見てくれないと子供じみた愚痴をいってしまう。
心に余裕がない。
頭が働かない。
寝つけない、胃が痛い。
こわいなぁ。
どうしたらいいものか。
こういう時、誰かに相談すればいいのに、一番話したいと思う人ほど指摘されたくなくて、コミュニケーションをとることを避けてしまう。
あーーーわからん!!!!
京都音博博覧会
毎年見に行こうか悩んで、「行かない」を選択してきたけど、今年はチケット発売と同時に「行く」選択をして、早々にホテルも予約した。
理由は特にない。笑
少しだけ、感想を...
“気持ちいい風が吹いたんです”がマッチする気候でスタートした「音博」。
安倍くんが、いつもより気持ち良さそうに歌っているからか、いつも以上に音楽が楽しく聴こえた。
キッチンか溶けたバターの匂いがして♩
明日は珈琲を入れながら、朝からネバヤンを流そう。
彼の音楽は最高に聴き心地が良い。隣の女性が涙を流していたけれど、心を打たれちゃうのが良くわかる。
特に”サヨナラCOLOR”を、あの甘くて少しシブい優しい声歌われたら...男の俺も涙してしまいそうになる。笑
“大安”の間に、オザケンの“今夜はブギーバッグ”をぶちこんできたのも彼ならではのユーモア。最高。笑
少し大人の余裕がある音楽。
俺もああいう曲が似合うオトコになりたい。
・くるり
「京都音博を開催するために頑張る」
岸田さんがそう言ってた。
大人になっても、自分のシュミでもあり、シゴトでもある音楽にそういう言葉をかけることは素敵だなったって思う。
好きをシゴトにするってシンドイけど、やっぱりCDを出せた時、ライブができてお客さんが喜んでいる時。とてつもない達成感と幸福で満たされるんだなって思った。
京都音博では、「はじめまして」の出会いがあった。
いつもは軽蔑してしまうそういうことでも、「いいもんだな」と思った。
なんか、いろんな音楽と人と出会って、少しだけもう一歩オトナにれた気がする。
なんでかわからないけど。
来年もまた行こう。
「何で?」と「じゃあ、どうしよっか?」
僕の上長は、何事においても細かい。
何か議論をする時も細部まで疑問を投げかけてくるし、文書を書く時も「主語」やら「てにをは」の小さな部分まで突っ込んでくる。
正直、面倒くさい。
でも、あんなにポンポンと疑問が浮かぶのはす見事だし、突っ込みどころも的確だから本当にすごいなと日々感心する。(上目線だけどもw)
そんなことを思っている中で、池田晶子の『14歳の君へ-どう考えどう生きるか-』を読んだ。
この本は、四章から構成されているエッセイだ。
一見、コムズカシイようだけれども、友達とか戦争とかお金とか分かりやすいテーマで、社会や世界や人生に対する疑問や違和感を分かりやすく問いかけてくる。
そして、答えを直接教えるのではなく、こんな風に見てみると幸せになれる道が開けるかもよ?っていう考え方のヒントを与えてくれる。
例えば...
「将来の夢」と「人生の目標」は違う。何が違うのか?
前者は、なりたい職業とか思い描いている生活で、後者は全人類に共通しているものらしい。
なぜ、わざわざ将来の夢を考えるのか、、
それは「こうなったら素敵だな」「こうなったら楽しいだろうな」とか幸福を求めるからだ。
つまり、人生の目標は幸福になるということ。
では幸福であるという定義は何なんだろうか?心が幸福である状態を指す。
心が幸福である状態って何だっけ?
自分を認めて、他人を妬まず、何かを誰のせいにもしない状態。
...そんなん無理って感じだけど、自己欺瞞に陥ると、自分の心を不幸にするのは当然だよね。
じゃあ、心を幸福にし続けるためにはどういう見方をすればいいのかな?
それは、気の持ちよう次第でしかない。
じゃあ、どういう気の持ち方をすれば心は幸福でいられるのかな?
例えば、周囲に嫌われたくないから本当の自分を見せられない状態にある若者に対して、著者はこういう捉え方をしてみれば?と言っている。
「別にいいじゃないか。人に好かれようとするよりも、人を好きになるようにしよう。こう気持ちを切り換えてごらん。自分に自信がない君も、それだけで何だか自信がわいてくるんじゃないかな。だって、人に好かれることは、自分じゃどうもできないことだけど、人を好きになることなら、自分でできることだからね。
そういうふうに、好かれようとせずに好きになろうとする。そういう君は、人目を気にせずに自然にふるまっているはずだから、結局、人に好かれることになるだろう。そういう人、その人がその人らしいのが、人には一番魅力的に見えるものなんだ。」
だけど、どうしても嫌いになるものもある。そういうことにはどうしよっか?
「嫌いなものを無理に好きになろうとするのは、好き嫌いにこだわるまいとして、逆に好き嫌いにこだわっているんだ。でも、好き嫌いは好き嫌いとして、どうしても存在する。それなら、それはそれとして認めてこだわらないこと、これが「愛」というものなんだ。」と言っている。
著者は色々なテーマに対して、「何で」を突き詰めて、その上でどう捉えることが自分が幸福になれるのかを突き詰めている。
つまり、自分を幸福にするためには、何でも問いかけることから始まり、考え続けることでしか解決されないんだなと実感。
その場から逃げることもできるけど、自分からは逃げられないもんね。。
そんでもって、問いかけるっていうのは、課題が降りかかってきた時に考えるのではなくて、日頃から問いかける姿勢がないとダメで、より深く考えたり、問いかけるには知識も必要なんだよね。
だから、勉強もしなくちゃいけないと改めて反省。笑
僕の上長は日頃から「考え続けている」から、沢山の疑問も出てくるし、色々な指摘もできるんだなと思った。
中々真似できないけど、そうなれるように日々進歩していこう。
飾りっ気のないキモチを
星野源の『いのちの車窓から』を読んだ。
彼の作品を読み終えた後は、決まって心が穏やかになる。
きっと、飾りっ気のない表現が、自分の持っている感情のひきだしとどこかリンクしているからだと思う。
さくらももこのエッセイもそうだけれど、読み終えた後の後味が「穏やかになる」とか「ほっこりする」と感じられる文章には"見栄"というものが一切存在しない気がする。
日常生活で起きた物事やそこで得た感情を、ありのままに表現している。
それがどんなに難しいことか。。
僕は文章を書く時、常に「賢く」見られたい欲求が働く。だから、そう見えるよう、思われるような文章を書きがちだ。
でも、このブログは誰も見ない。
自分の感情に従って、素直にありのままに表現することがこのブログの「目的」であり、ある意味、「挑戦」だ。笑
いつまで続くのかは分からないけれど、とりあえず、まったり・のんびりと更新していきます。